

たった3時間の研修を受けただけで、「問題患者」とされていた人が予約をキャンセルしなくなった事例が報告されています。
トラウマインフォームドケア(Trauma-Informed Care:以下TIC)とは、支援にかかわるすべての人が「目の前の患者にはトラウマ体験があるかもしれない」という前提で接する、ケアの枠組みです。特定の患者だけを対象にした特別な治療法ではありません。
米国の薬物乱用精神保健管理局(SAMHSA)が2014年に発表した指針では、TICを組織・システム全体に導入するアプローチとして定義しています。その核心は「何があったの?」という問いかけを「なぜそんな行動をするの?」より前に置くことです。これが原則です。
歯科現場に置き換えると分かりやすくなります。治療中に突然パニックになる患者や、予約のドタキャンを繰り返す患者に対して、「困った患者だ」と判断するのではなく、「過去に何かつらい体験があって、この環境が引き金になっているのかもしれない」と捉え直す視点です。
つまりTICは、患者の行動の「意味」を再解釈するための知識体系と言えます。歯科の治療台に横になる姿勢、口の中に器具が入る感覚、狭い個室、マスクで顔が隠れたスタッフ——これらはトラウマを持つ患者にとって強烈なトリガーになりうる要素が揃っています。
| 従来のアプローチ | TICアプローチ |
|---|---|
| 「なぜ言うことを聞かないの?」 | 「何があって、そうなったの?」 |
| 問題行動への対応 | 背景にあるトラウマの理解 |
| 患者を「困難事例」と分類 | 患者の反応を「生存のための対処」と捉える |
| 個人の責任を問う | 環境・経験が人に与える影響を考える |
歯科衛生士や歯科助手、受付スタッフも含めた全スタッフがこの視点を持つことで、患者との関係性は大きく変わります。「知っているかどうか」で、患者対応の質に雲泥の差が生まれます。
歯科診療でのトラウマ配慮の課題と促進要因(British Dental Journal 2025年7月号掲載論文の概要)|CareNet Academia
2025年12月30日にEuropean Journal of Dental Education誌に掲載された研究が、歯科業界に大きな波紋を呼んでいます。内容は「歯科病院スタッフを対象とした3時間のTIC研修プログラムにより、参加者のTICに対する自信度が研修後に約30%向上し、その効果が約1年後も持続した」というものです。
3時間というのは、スタッフ勉強会1回分程度の時間です。昼礼を少し長くした程度の投資で、1年間持続する効果が得られるというのは大きな数字です。
また同研究では、TIC研修を受けたスタッフと受けていないスタッフの間で「患者へのTICに関する態度」に統計的に有意な差が生じたことも確認されています。これは「研修を受けた人と受けていない人では、同じ患者に対する対応が根本的に違う」ことを意味します。
さらに背景として重要なのが、口腔健康状態とトラウマの深い関連性です。同誌2025年7月号(British Dental Journal)の研究では、心理的トラウマの発生率が増加する中、トラウマ症状を持つ患者は「通常の歯科治療へのアクセスや受診に困難を抱える」と結論付けています。
結論は「TIC研修は特別なことではなく、今の歯科現場では基礎知識になりつつある」ということです。国際的な研究が続々と歯科×TICの重要性を示している今、2025年はその導入の分水嶺と言えます。
歯科病院でのTIC研修によりスタッフの自信度が約30%向上・1年後も持続(European Journal of Dental Education 2025)|CareNet Academia
「再トラウマ」とは、過去のトラウマ体験を想起させる刺激(トリガー)によって、まるでその出来事が今起きているかのような反応が引き起こされる状態です。これが問題です。
SAMHSAのTICの枠組みでは「4R」という考え方が基本になります。
4つ目の「再トラウマ防止」が、歯科現場でとりわけ重要です。
歯科診療室には、他の医療機関と比べても特殊なトリガーが集中しています。仰向けに横になる体勢は、性的暴力や身体的拘束を経験した患者に強い恐怖を喚起することがあります。口の中に指や器具を入れる行為も同様です。「動かないで」「口を大きく開けて」という命令口調の指示、目をふさぐような照明、白衣や手袋といった視覚的要素もトリガーになりえます。
意外ですね。これらは歯科スタッフにとってごく日常的な行為です。しかしトラウマを持つ患者には、それが「制御を奪われる体験」として感じられることがあります。
患者が突然硬直する、涙が止まらなくなる、攻撃的になる——これらは「問題行動」ではなく、脳の防衛反応です。こうしたサインに気づき、適切に対応するためにもTIC研修が必要になります。再トラウマを防ぐためには、環境・言葉・姿勢の三方向から意識することが大切です。環境的には待合室の照明や個室の仕切りを工夫し、言葉では選択肢を与える表現(「少し口を開けてもらえますか?」)に切り替え、姿勢では患者のペースを尊重することがポイントです。
SAMHSAが示すTICの「6つの主要原則」は、歯科診療の具体的なシーンに直接当てはめることができます。6原則が基本です。
①安全(Safety)
患者が物理的・心理的に「ここは安全だ」と感じられる環境を作ることです。歯科では、待合室の配置・スタッフの声のトーン・「いつでも手を挙げていいですよ」という事前説明が有効です。
②透明性と信頼性(Trustworthiness and Transparency)
これから何をするかを丁寧に説明し、隠さないことです。「次はこの器具を使います」「少しチクっとします」という事前告知は、患者に予測可能性を与え、恐怖を減らします。
③ピアサポート(Peer Support)
患者が安心できる人を連れてくることを許可したり、家族の同席を認めたりする配慮です。独り孤独に診療台で不安を抱えさせない姿勢です。
④協働と相互性(Collaboration and Mutuality)
患者が診療の主体であるという意識を持ってもらうことです。「今日は何を一番気にしていますか?」と問いかけ、患者の意向を反映した診療計画を立てることです。
⑤エンパワーメントと選択(Empowerment, Voice and Choice)
患者に「選ぶ力」を戻すことです。「右から始めますか、左から始めますか?」「今日は確認だけにしますか?」という小さな選択肢の提供が、自律感を生みます。これは使えそうです。
⑥文化・歴史・ジェンダーへの配慮(Cultural, Historical and Gender Issues)
患者の文化的背景や性別・年齢によって、恐怖の内容は異なります。高齢者・子ども・外国籍患者・DV被害経験者など、それぞれに配慮した対応が求められます。
この6原則は、難しい専門技術ではなく「態度と仕組みの問題」です。受付から会計まで、歯科医院のすべての接点で意識できるものです。研修を通じてスタッフ全員が共通言語を持つことが、TIC導入の第一歩になります。
SAMHSAのトラウマ概念とトラウマインフォームドアプローチのための手引き(日本語版)|大阪教育大学・兵庫県こころのケアセンター訳
TIC研修への参加方法は、現時点でいくつかのルートがあります。まず手軽なのはオンラインセミナーの活用です。
兵庫県こころのケアセンターでは、年間を通じてトラウマインフォームド・ケアに関する専門研修(令和7年度こころのケア研修)を開催しており、医療従事者を対象とした基礎的な内容から専門的な内容まで段階別に学べる体制が整っています。また大阪大学の野坂祐子教授(TICの第一人者として知られる)が監修する研修会も定期的に開催されており、医療系職種が参加できるオンライン形式が増えています。
歯科院内での研修導入を検討する場合、以下の3ステップが現実的です。
研修後に意識したいのが「自己点検」の習慣です。研修を受けただけで終わりにしない仕組みが大切です。カルテに「患者がこの言葉でリラックスした」「この操作で硬直した」などのメモを残すだけでも、データが蓄積されて院内の知見になります。
また、TIC研修は医療スタッフ自身の「セルフケア」にも繋がります。トラウマを持つ患者と日々向き合う歯科従事者には、二次的トラウマティックストレス(共感疲労)のリスクがあります。TICを学ぶことで、自分自身の反応にも気づきやすくなり、バーンアウト予防にも役立ちます。
研修を受けた後は、院内での「安全の言語」を統一することが条件です。「あの患者はトリガーがある」と共有できるだけで、チーム全体の対応の精度は格段に上がります。
令和7年度こころのケア研修(第2期受講者募集)|兵庫県こころのケアセンター(医療従事者向け基礎研修の日程と内容が確認できます)