

「丁寧に口腔衛生指導をすれば、患者さんの健康は守れる」と思っていませんか?
健康を決めるのは、歯ブラシの選び方や食事の内容だけではありません。近年、医療・歯科領域で急速に注目されているのが「健康の社会的決定要因(Social Determinants of Health:SDH)」という概念です。
SDHとは、人々が生まれ育ち、生活し、働き、老いていくなかで健康に直接・間接的に影響を与える社会的・経済的・環境的な諸条件のことです。世界保健機関(WHO)は「健康の社会的決定要因が健康格差の最大の原因である」と明確に述べており、これは歯科口腔保健においても同様です。
具体的なSDHの要素としては、所得・世帯収入、学歴・教育年数、職業・雇用形態、居住地域・住環境、社会的支援・ソーシャルキャピタル、医療機関へのアクセスしやすさ、そして幼少期の成育環境などが挙げられます。
つまり「なぜ虫歯になったのか」「なぜ歯周病が治らないのか」という問いに対して、患者個人のブラッシング習慣や食生活だけを見ていては、本質的な答えにはたどり着けないことがあるということです。
社会的に不利な立場に置かれた人々は、疾患リスクが高いにもかかわらず歯科受診も難しいという二重の不利益を受けていることが、国内外の研究データで繰り返し示されています。これが口腔の「健康格差」という問題の核心です。
参考:WHOおよび東京財団政策研究所による健康の社会的決定要因の解説。所得・教育・職業・居住環境などがどのように健康格差を形成するか詳しく解説されています。
「低所得の方は歯科に来ない」という実感は、多くの歯科従事者が持っているかもしれません。しかしその実態は、想像以上に深刻なデータで裏づけられています。
まず所得と口腔健康の関係を示す代表的な指標として「無歯顎(歯が1本もない状態)のリスク」があります。東北大学・相田潤教授らの研究では、所得が低い高齢者ほど無歯顎のリスクが統計的に有意に高く、しかも個人の所得だけでなく「住んでいる地域の所得が低い」という地域レベルの格差も無歯顎リスクを高めることが明らかになっています。これは個人の努力を超えた健康格差の存在を意味しています。
教育歴との関連も見逃せません。国立がん研究センターの多目的コホート研究では、教育歴が高いグループほど永久歯が20本以上残っている割合が高いという関連が示されています。「学歴」という若い頃に決まってしまう指標が、数十年後の歯の残存本数に影響を与えているという事実は、歯科治療の枠を大きく超えた問題です。
また、総務省「家計調査」の分析によると、世帯収入が低いほど歯科診療代の支出が低い傾向が明確に認められています。医科と比べて、歯科診療費の支出が世帯収入の格差を鋭く反映するのは歯科に顕著な特徴です。歯科は保険適用外の治療が多いことも、この格差を広げる一因として働いています。
結論はシンプルです。貧困層ほど口腔の健康状態が悪く、かつ歯科を受診しにくいという二重の格差が存在しています。歯科従事者がこの構造を理解することは、臨床における患者理解を深め、適切なサポートや連携を考えるための重要な土台となります。
参考:健康長寿ネット(公益財団法人長寿科学振興財団)による相田潤教授の解説記事。高齢者のオーラルヘルスと社会経済状況・地域格差の関係が図表つきで詳しく説明されています。
高齢者だけの問題ではありません。子どもの段階から健康格差は始まっており、しかもそれがライフコース全体を通じて蓄積されていきます。
足立区・足立区教育委員会と国立成育医療研究センターが行った調査では、生活困難世帯の子どもに虫歯の罹患率が高くなることが明確に示されました。貧困家庭では安価なお菓子で子どもの空腹を満たす「だらだら食べ」が常態化しやすく、口腔内が酸性になる時間が長くなるためです。なかには歯ブラシや歯磨き粉すら与えられない子どもも存在します。
さらに深刻なのが学校歯科検診後の「未受診」問題です。全国保険医団体連合会が2018年に発表した学校歯科治療調査(全国5,000校超が対象)では、要受診と診断されても受診しない割合が小学校50.8%、中学校65.3%、高校82%、特別支援学校55.7%という数字が示されました。高校生の場合、要受診の子どものうち約5人に4人が受診しないまま放置されていることになります。
未受診の背景として、医療費の助成期間の問題も指摘されています。自治体によって異なりますが、小学6年や中学3年の節目で医療費助成が打ち切られると、思春期以降の受診率が急落します。生活保護受給世帯は医療扶助があるものの、相対的貧困(可処分所得の中央値の半分未満)の家庭は扶助の対象外であることも格差を広げる要因のひとつです。
また口腔崩壊(虫歯が10本以上ある、あるいは歯根のみが残るような状態)の子どもがいる学校の割合は、兵庫県の調査で35.4%にも達しています。咀嚼困難な状態に置かれた子どもが全国の3割を超える学校に存在するという現実は、社会経済的要因が口腔健康に与えるインパクトを象徴しています。
乳歯の早期喪失は永久歯の萌出位置を乱し、歯並びや咬合の悪化につながります。その結果、ブラッシングが難しくなり、成人後の歯周病・虫歯リスクが上昇するという負の連鎖が生まれます。幼少期の口腔格差は、高齢期の歯の本数にまで影響を及ぼすのです。
参考:nurshare.jpに掲載された「口腔の健康と社会格差」。子どもの貧困と虫歯罹患率、歯科未受診の実態が具体的なデータとともに解説されています。
口腔格差は「歯が少ない・痛い」という問題で終わりません。最新の研究は、それが認知症の格差にまでつながることを示しています。
東京科学大学(旧・東京医科歯科大学)の相田潤教授らの研究グループは、日本全国の65歳以上の高齢者21,306人を2010年から2022年まで12年間追跡した大規模コホート研究を実施しました。その結果、世帯収入が年200万円未満の群では認知症発症率が24.0%、200万円以上の群では19.7%であり、所得が低い人の認知症リスクは1.17倍高いことが確認されました。
また、自分の歯が20本未満の人の割合も、収入200万円未満の群で68.9%、200万円以上の群で57.8%と大きな差がありました。さらに詳細な分析によって、所得と認知症リスクの関係のうち6.6%が「歯の喪失」によって媒介されていることが世界で初めて明らかになりました(Journal of Dentistry、2024年)。
これは重要な意味を持っています。つまり歯を守ることが、認知症の健康格差を縮小するひとつの手段になりうるということです。低所得で歯を失いやすい環境にある患者を歯科的にサポートすることは、口腔にとどまらず、認知機能の維持という観点からも大きな社会的意義を持ちます。
別の研究では、地域の所得格差が大きいほど住民の「主観的健康感が悪い危険性が1.9倍」「歯の本数が少ない危険性が最大3.4倍」高くなることも示されており、個人レベルの問題として収束させることが難しい構造的な問題であることがわかります。
BMJ(2021年)掲載の米英大規模コホート研究(米国約4.5万人・英国約40万人)でも、「健康的な生活習慣の推進だけでは健康の社会経済的格差は縮小されない可能性がある」という結論が示されています。生活習慣だけでなく、社会経済的要因そのものへのアプローチが必要だという国際的なコンセンサスが形成されつつあります。
参考:東京科学大学(旧東京医科歯科大学)の12年追跡研究プレスリリース。所得と認知症の関連に歯の喪失が6.6%媒介するという世界初の知見が詳細に解説されています。
所得による認知症の健康格差を歯の喪失が説明 | Science Tokyo(東京科学大学)
「社会経済的格差を解決するのは政策の仕事で、現場の歯科従事者にはどうしようもない」と感じるかもしれません。しかし研究者たちは、歯科の現場にもできることは確実にあると述べています。
まず基本として、患者の背景にある社会的・経済的な事情を「診療の文脈」として理解することが重要です。来院が途絶えがちな患者、メンテナンスにまったく来ない患者、指導を聞いているようで改善されない患者——その背景に、多忙なシングル世帯の経済的事情や、住んでいる地域のアクセス問題が潜んでいることがあります。
具体的な取り組みとして特に有効性が示されているのが、フッ化物洗口のような「ポピュレーション戦略」です。新潟県や佐賀県では学校でのフッ化物洗口プログラムの実施率が高く、3歳児と12歳時の都道府県別う蝕順位が大幅に改善しています。これは一部のハイリスク患者だけでなく、地域全体の子どもを対象とした一次予防がいかに格差縮小に有効かを示す好例です。
また、東京科学大学・相田教授らのレビュー論文(Community Dentistry and Oral Epidemiology、2023年)では、歯科医療費の自己負担を減らす政策や、砂糖・タバコへの課税が口腔の健康格差を縮小する効果があることも示されています。保険者や行政との連携によって、受診しやすい環境づくりに間接的に貢献できる余地があります。
歯科衛生士の立場からは、患者の「忙しさ」「経済的な制約」を前提として受け入れたうえで、受診ハードルを下げる関わり方が求められます。「なぜ来ないのか」ではなく「どうしたら来られるか」という視点のシフトが実践のスタートです。
たとえば無料または低コストで使える「口腔ケアに関するリーフレット配布」「保健センターや学校との協働」「フッ化物含有歯磨き剤の継続使用の推奨」といったアクションは、費用負担なく現場から実践できる格差縮小の一歩です。
参考:東京科学大学(旧東京医科歯科大学)相田潤教授らによるナラティブレビューのプレスリリース。歯科医療費自己負担の軽減や砂糖・タバコへの課税が口腔の健康格差縮小に有効とする国際的根拠が示されています。
口腔の健康格差の縮小のために、経済的な介入の必要性を再考 | 東京医科歯科大学(Science Tokyo)
ここまでの内容を整理すると、歯科における健康格差は患者個人の「意識の低さ」や「怠慢」では説明しきれないものだということが見えてきます。
公衆衛生の分野では「原因の原因(causes of causes)」という考え方があります。虫歯や歯周病が多い→歯科受診しない→口腔衛生習慣が悪いという直接的な原因の背後に、「低所得」「長時間労働」「医療費の不安」「情報へのアクセスの少なさ」という社会経済的な原因が存在しているということです。この構造を無視して患者に「もっとブラッシングを」と繰り返すだけでは、根本的な解決には至りません。
JAGES(日本老年学的評価研究)の縦断データをもとにした研究では、高齢者の健康格差がライフコース全体を通じて蓄積されることが示されています。子どもの頃の経済状況が高齢期の歯の本数や咀嚼能力の格差に寄与するというデータは、予防介入のタイミングは早ければ早いほどよいことを示唆しています。
歯科従事者として「この患者はなぜこの状態なのか」を、生物学的・解剖学的側面だけでなく社会的側面からも捉える習慣を持つことが、これからの歯科医療に求められる視点です。患者の背景にある社会経済的文脈を理解することは、より的確な治療計画・予防計画の立案につながり、患者とのラポール(信頼関係)形成にも役立ちます。
「この患者は経済的に厳しいから、治療ではなく予防を優先しよう」「社会的孤立があるから、口腔機能を通じた社会参加を支援しよう」といった発想が、臨床の質を変えていきます。これが「SDHを意識した歯科診療」の第一歩です。
参考:健康長寿ネット(公益財団法人長寿科学振興財団)掲載の論文解説。JAGES研究データをもとに高齢者の健康格差生成プロセスがライフコースの観点から詳述されています。
高齢者の健康格差生成のプロセス:JAGES縦断研究の結果から | 健康長寿ネット