

血圧180/110mmHg超でも、臓器障害がなければ「今すぐ救急搬送」は不要です。
歯科治療中に患者の血圧が急激に上昇した場面で、あなたはどちらの判断を先に行いますか。「高いから搬送」か、「臓器障害があるから搬送」か——この判断の根拠こそが、高血圧緊急症ガイドラインの核心です。
日本高血圧学会の「高血圧治療ガイドライン2019(JSH2019)」によれば、血圧が180/120mmHg以上になった状態はすべて「高血圧クライシス」と総称されますが、そこからさらに2つに分類されます。高血圧「緊急症(hypertensive emergency)」とは、血圧の高度上昇に加えて、脳・心臓・腎臓・大血管などに急性の臓器障害が生じている状態のことです。一方、血圧値は同様に高くても臓器障害を伴わない場合は「高血圧切迫症(hypertensive urgency)」と呼ばれます。
つまり、高さが問題ではなく、「臓器がダメージを受けているかどうか」が分岐点です。
| 区分 | 血圧 | 臓器障害 | 緊急性 | 降圧スピード |
|------|------|----------|--------|--------------|
| 高血圧緊急症 | 180/120mmHg以上 | あり | 即座に入院治療が必要 | 数時間以内に段階的に |
| 高血圧切迫症 | 180/120mmHg以上 | なし | 外来での治療が可能 | 数日かけてゆっくり |
歯科の現場でとくに重要なのは、緊急症では静脈ラインを確保して経静脈的降圧薬(ニカルジピン、ラベタロールなど)での治療と入院が必要になる点です。歯科院内でこれらを実施することは通常不可能なため、疑われた段階で救急要請が原則となります。
切迫症の圧倒的最多原因は「不安」であることもガイドラインは示しています。歯科治療の恐怖・緊張による血圧上昇の多くがこれに該当します。カウンセリングや鎮静処置で対処できるケースも少なくありません。これが原則です。
MSDマニュアル プロフェッショナル版:高血圧緊急症の定義・診断・治療薬の詳細解説
歯科治療中に血圧が上昇した際、焦って全例を救急搬送してしまうと患者への負担も大きく、診療の中断にもつながります。切迫症と緊急症を正確に区別できる判断軸を持つことが、歯科医療従事者としての質の高い対応につながります。
高血圧緊急症の恐ろしい点は、症状が突然・急激に出現することです。朝は問診でも特に問題がなかった患者が、治療の途中で急変するケースも起こり得ます。歯科従事者としてどのような症状に注意すべきか、ガイドラインの観点から整理します。
高血圧緊急症で現れる主な症状は以下のように分類されます。
🧠 脳・神経系の症状
- 突然の激しい頭痛(後頭部を中心に、脈打つような痛み)
- めまい・ふらつき
- 意識がもうろうとする、反応が鈍い
- 片側の手足のしびれ・脱力
- ろれつが回らない、言葉が出にくい
- けいれん発作
💓 心臓・血管系の症状
- 胸が締め付けられるような痛み、または引き裂かれるような背中の痛み(大動脈解離を疑う)
- 急な息苦しさ、横になれない(肺水腫を疑う)
- 動悸
👁️ 眼の症状
- 視野の一部が欠ける
- 物が二重に見える
- 一時的な視力低下
「痛みや症状は患者が自分から訴えてくれる」と思い込むのは危険です。歯科治療中は口を開けているため、患者が何かを訴えにくい状況にあります。治療前・治療中のバイタルモニタリングと、表情・顔色の変化への観察が特に重要です。いいことですね、と簡単に言えない話です。
臨床研究によれば、高血圧緊急症で入院した患者の院内死亡率は約9.9%にのぼり、退院後1年以内に重篤な心血管イベントを起こすリスクも高いと報告されています(American Heart Association Journals)。また、脳梗塞は入院患者の約28%に発症するとされています。この重篤さを念頭に置くことが、正確なトリアージにつながります。
一方で、慢性的な高血圧患者では「体が高血圧に慣れてしまっている」ため、血圧値が著しく高くても自覚症状がほとんど出ないことがあります。意外ですね。数字だけでなく、臓器障害の有無を確認する問診と観察の習慣が欠かせません。
なお、大動脈解離が疑われる場合は左右上肢の血圧差が重要なサインになります。両腕の血圧を測定する習慣を持っておくことが、見逃しを防ぐ独自の視点として有効です。
熊本総合医療センター:高血圧緊急症とは?症状・原因・治療法をわかりやすく解説(合併症の発生頻度一覧あり)
高血圧患者に歯科治療を行う前、まず確認すべきことは何でしょうか。「降圧薬を今日飲んできたかどうか」の確認は、一見些細に見えて実はきわめて重要なステップです。
高血圧治療ガイドライン(JSH2019)では、歯科治療前に高血圧の有無と血圧管理状況を事前に評価することが推奨されています。日本歯周病学会の資料(2023年)でも、循環器疾患患者への対応として、バイタルサインのモニタリングと医科との連携体制を整えることが強調されています。
治療前の血圧値と対応フロー
| 血圧値 | 対応 |
|--------|------|
| 139/89mmHg以下 | 通常の歯科治療が可能 |
| 140〜159/90〜99mmHg | 経過観察しながら治療可(軽度) |
| 160〜179/100〜109mmHg | 観血処置(抜歯等)は控える。虫歯治療は可能 |
| 180/110mmHg以上 | 全歯科治療を中止し、内科医への紹介を優先 |
再検後も血圧高値が持続する場合や、何らかの自覚症状がある場合は、緊急処置以外の待機可能な治療については内科治療を優先することが求められています。これがガイドラインの原則です。
治療前チェックリストとして、以下の5点が有効です。
- ✅ 当日の降圧薬の服用確認
- ✅ 血圧測定(可能なら両腕)
- ✅ 最近の血圧コントロール状況の問診
- ✅ 内服薬リストとお薬手帳の確認
- ✅ 既往の臓器障害(脳梗塞・心筋梗塞・腎不全等)の有無
降圧薬の飲み忘れは、高血圧緊急症の最大の引き金であることが複数の研究で示されています。飲み忘れがあった場合は血圧を安定させてから治療を開始することが安全です。「持参の降圧薬があれば服用してもらう」対応も有効ですが、そのためには普段から「お薬を持参してきてください」という声かけ習慣が必要です。
また、「血圧が下がったから薬はもう不要」と自己判断して服薬を中断する患者は少なくありません。こうした行動がリバウンド(反跳性高血圧)を引き起こし、緊急症へと発展するリスクがあることを患者指導の中に組み込むことも、歯科医療従事者ができる重要な予防的介入です。
口腔外科専門サイト:高血圧患者と歯科治療について【歯科医療従事者向け】(血圧値別の対応フロー・治療時の対処法を網羅)
歯科院内で高血圧緊急症が疑われた場合、誤った対処は状態を悪化させます。「とにかく血圧を下げれば良い」という思い込みが、患者を危険にさらすことがあります。この点は特に強調しておく必要があります。
院内初期対応の基本手順
1. 🛑 治療を直ちに中断する
2. 🪑 患者を安静にさせ、セミファウラー位(頭部挙上)を保つ
3. 🫁 酸素投与を開始する(SpO₂をモニタリング)
4. 🩺 血圧・脈拍・SpO₂を継続的に確認する
5. 📞 医科主治医に連絡し、指示を仰ぐ
6. 🚑 症状が改善しない場合・臓器障害の症状がある場合は救急要請(119番)
ここで注意しなければならないのが、降圧の目標と速度です。ガイドラインでは「最初の1〜2時間でMAP(平均動脈圧)を20〜25%低下させる」ことが目安とされており、「正常血圧まで一気に下げる」ことは推奨されていません。急激な降圧は、脳・心臓への血流低下を招く可能性があります。特に脳梗塞の場合は、速やかな降圧が有害となる可能性さえあるとMSDマニュアルでも警告されています。
現在のガイドラインで「禁忌」とされる対処
歯科の現場で歴史的に行われてきた「ニフェジピン(アダラート)カプセルの舌下投与」は、現在のガイドラインでは明確に禁忌とされています。2002年10月より添付文書にも禁止事項として明記されました。短時間作用型のニフェジピンは急速かつ過度な降圧を引き起こし、脳虚血や心筋虚血を惹起するリスクがあるためです。
「知らない医師が8割」という調査結果(日経メディカル調査)もかつて報告されており、歯科従事者の間でも旧来の対処法が混在している可能性があります。厳しいですね。現行ガイドラインでは「経口薬は用量調節が困難で適応外」という立場であり、院内で試みる処置には静脈路確保後の経静脈投与(ニカルジピンなど)が必要です。歯科クリニックではその環境整備が難しいため、速やかな救急要請が最善の選択となります。
薬剤師.com:今さらながらニフェジピンの舌下投与がなくなった経緯について(JSH2009ガイドラインの記載含む)
万が一に備えた院内体制づくり
高血圧緊急症への初期対応を確実にするために、以下のような院内整備が有効です。
- 📋 急変対応フローチャートの掲示
- 🧰 酸素ボンベ・パルスオキシメーター・血圧計の常備
- 📞 近隣救急病院・患者かかりつけ医の連絡先一覧の整備
- 🏃 スタッフ全員への定期的な急変シミュレーション訓練
院内体制を整えることが条件です。
「高血圧患者にはアドレナリン入り麻酔薬は絶対に使えない」と思っていませんか。これは多くの歯科従事者が持つ思い込みですが、現行ガイドラインの立場は少し異なります。
日本歯科麻酔学会が2019年に発表した「高血圧患者に対するアドレナリン含有歯科用局所麻酔剤使用に関するステートメント」では、血圧がコントロールされている高血圧患者への使用は禁忌ではないと明記されています。日本歯周病学会(2023年)も同様に「アドレナリン含有歯科局所麻酔薬の初回投与量はカートリッジ2本までを目安とし、必要最小限に留める」という具体的な指針を示しています。
アドレナリン含有局所麻酔薬を使用できる条件
- ✅ 血圧が180/110mmHg未満であること
- ✅ 血圧・心拍数のモニタリングを行いながら使用すること
- ✅ 1回の使用量はカートリッジ2本(リドカイン塩酸塩・アドレナリン含有1.8mL×2本)以内
- ✅ ゆっくりとした注射速度で投与すること
この背景には、「痛みや不安による内因性カテコラミン放出の方が、少量のアドレナリン添加局所麻酔薬よりも血圧への影響が大きい」という医学的知見があります。つまり、麻酔が効かない状態で治療を続けることの方が、血圧上昇リスクが高いという逆説があるのです。これは使えそうです。
高血圧患者への局所麻酔薬の選択肢
| 麻酔薬 | 特徴 |
|--------|------|
| 2%リドカイン塩酸塩+アドレナリン(1:80,000) | 最も汎用性が高い。血圧コントロール下なら使用可 |
| 3%プロピトカイン+フェリプレシン | 血管収縮薬がアドレナリンでないため、心臓への直接作用が少ない |
| 3%メピバカイン(血管収縮薬なし) | 持続時間は短いが、高リスク患者の短時間処置に有効 |
フェリプレシン含有プロピトカインは、アドレナリンの代替として高血圧患者に用いられることがありますが、不十分な麻酔効果による痛み刺激が血圧上昇を招くこともあるため、麻酔効果の確認が必要です。麻酔薬の選択は患者の血圧コントロール状態、治療内容、処置時間を総合的に判断して行うことが求められます。
NSAIDsについても注意が必要です。歯科でよく使用されるロキソプロフェンなどのNSAIDsは、プロスタグランジンの生成を抑制するため血管収縮をきたし、血圧を上昇させます。RAS抑制薬・利尿薬・β遮断薬の降圧効果を弱める相互作用もあります。特に腎機能低下患者(eGFR<30mL/min)には禁忌です。アセトアミノフェンへの切り替えを検討することが、腎機能低下のある高血圧患者への安全な鎮痛ケアの基本です。
高血圧患者に対して「麻酔なしで我慢してもらう」「すべてを延期する」という過度に消極的な対応も、患者の疼痛・不安を高めることで逆に血圧上昇リスクを高めます。ガイドラインを正確に把握した上での積極的かつ慎重な対応が、歯科医療従事者に求められる姿勢です。これだけ覚えておけばOKです。