

電気ショック後に脈を確認していると、あなたは患者を見殺しにしています。
一次救命処置(BLS:Basic Life Support)とは、心停止または呼吸停止に陥った傷病者に対して、特別な医療器具を使わずに行う初期の救命行為です。具体的には、胸骨圧迫(心臓マッサージ)・人工呼吸・AEDによる電気ショックの3つが主な要素です。
歯科診療所は特殊なリスク環境です。局所麻酔薬の投与や抜歯時の強い痛み刺激、精神的緊張などが患者の血管迷走神経反射・アナフィラキシーショック・急性冠症候群などを誘発しやすく、院内での急変リスクは一般社会よりも高いとされています。大阪府歯科医師会の医療安全管理手引きでも、アナフィラキシーショックや局所麻酔薬中毒の末期症状に対してBLSが必要な場面を明確に記載しています。
つまり、歯科診療所において一次救命処置の手順を習熟しているかどうかは、単なる資質の問題ではなく、患者の命に直結する実務スキルです。
心停止から1分以内に胸骨圧迫が開始された場合、救命率はおよそ95%に達するというデータがあります(八王子整形外科の救命統計データより)。しかし3分を超えると75%、5分で25%、8分後には救命の可能性が極めて低くなります。時間の感覚は大切です。1分という時間は、ちょうど心電図の12誘導記録を1枚とる時間と同じくらい。それだけ短い時間に対応が求められています。
救命率が高いほど重要です。歯科診療所スタッフ全員が手順を知っておかなければならない理由はここにあります。
BLSの最初のステップは、周囲の安全確認です。診療室内であれば倒れた患者の周辺、ユニット周りの機器や器具が危険でないか、スタッフ自身の安全が確保できているかをまず確かめます。院外での処置では車の往来や室内の煙なども確認対象です。救助者自身の安全を守ることが最優先です。
続いて反応の確認を行います。患者の肩を軽く叩きながら大声で呼びかけ、返答や意図的な仕草がなければ「反応なし」と判断します。痙攣中などで反応の有無が曖昧な場合も「反応なし」として次のステップに進んでください。判断に迷う時間が命取りになることがあります。
反応がないと判断したら、大声で周囲のスタッフに応援を呼び、同時に119番通報とAEDの手配を依頼します。歯科診療所では複数スタッフがいることが多いため、「AEDを持ってきて」「119番お願い」と具体的な指示を出すことが重要です。誰かがやってくれると全員が思い込む「傍観者効果」を防ぐために、必ず名指しで指示を出しましょう。これが鉄則です。
次に呼吸の確認を行います。傷病者の胸・腹部の動きを10秒以内に観察します。「普段どおりの呼吸」でない場合、または判断に迷う場合は心停止とみなしてただちに胸骨圧迫を開始します。医療従事者の場合は、この呼吸確認と同時に頸動脈の脈拍を確認します(10秒以内)。
胸骨圧迫の開始が全ステップの中で最も優先度の高い行動です。患者を床や硬い面の上に仰向けに寝かせ、胸の横にひざまずきます。胸骨の下半分(胸の真ん中やや下)に両手を重ね、深さ約5cm(6cmを超えない)、テンポ100〜120回/分で「強く・速く・絶え間なく」圧迫します。5cmという深さは、名刺の短辺(5.4cm)とほぼ同じ長さのイメージです。
毎回の圧迫と圧迫の間に、胸が完全に元の位置に戻るよう、圧迫を解除する際に手を胸から離さず、ただし体重は完全に抜くことが求められます。胸が戻り切らないと次の圧迫の効果が下がります。圧迫の中断は最小限に、が原則です。
歯科医療従事者が行うBLSは、一般市民とは異なる「医療用BLSアルゴリズム」に基づきます。大きな違いの一つが、人工呼吸への姿勢です。
一般市民が訓練なしでBLSを行う場合は、胸骨圧迫のみのCPR(Hands-Only CPR)でも問題ないとされています。しかし医療従事者として人工呼吸の技術と意思がある場合は、胸骨圧迫30回と人工呼吸2回を組み合わせて行うことが推奨されています。これが「30:2」の基本です。
人工呼吸を行う際はまず気道確保が必要です。頭部後屈あご先挙上法(片手で額を押さえ、もう一方の指先で下あごを持ち上げ気道を開く方法)で気道を確保します。人工呼吸は1回約1秒かけて、胸の上がりが確認できる程度の換気量で吹き込みます。吹き込みすぎると肺損傷や静脈還流の妨げになるため要注意です。
感染リスクについて過度に心配する必要はありません。口対口の人工呼吸による感染リスクは非常に低いとされていますが、感染防護具(フェイスシールドや一方向弁付きマウスピース)があれば使用することが望ましいです。ためらいがある場面や準備がない場合は、胸骨圧迫のみを継続してください。
また、窒息や溺水など呼吸原性の心停止では、人工呼吸の重要性が高まります。特に小児は呼吸原性の心停止が多いため、JRCガイドライン2020では「小児では人工呼吸を組み合わせたCPRを行うことが望ましい」と明記されています。歯科診療所に小児患者がいる場合、この点を意識してください。
30回の胸骨圧迫を終えてから人工呼吸の準備を行う際、胸骨圧迫の中断は10秒以内にとどめることがガイドラインで定められています。CPR全体の時間のうち、実際に胸骨圧迫を行っている割合(CCF:胸骨圧迫比率)は最低でも60%以上を確保することが求められます。中断時間が長くなるほど救命効果は下がります。迷わず動けることが条件です。
AED(自動体外式除細動器)が到着したら、ただちに装置を起動します。蓋を開けると自動的に電源が入るタイプと電源ボタンを押すタイプがあります。起動後は音声ガイダンスに従うだけです。AEDは自動で心電図を解析し、電気ショックの要否を判断してくれます。
電極パッドは成人の場合、右前胸部と左側胸部(脇の下)に貼付します。未就学児(小学校入学前)には小児用パッドまたは小児用モードに切り替えて対応します。成人に小児用を使ってはいけません。これは必ず守ってください。
AEDの心電図解析中は、傷病者に触れないようにします。解析中に触っていると、正確な波形が読めず、誤った判断をAEDがしてしまうリスクがあります。解析が終わって「ショックが必要です」と判断された場合、周囲の人に「離れてください」と声をかけてから、ショックボタンを押します。
電気ショック後にやりがちな大きな誤りが、脈を確認してから胸骨圧迫を再開しようとすることです。
除細動に成功しても、約90%の症例で直後にはまだ胸骨圧迫が必要な状態が続いています(日本スポーツ協会ATテキストより)。電気ショック後は観察の時間をつくらず、ただちに胸骨圧迫から再開することがガイドラインの指示です。「ショックは不要です」という音声が出た場合も同様で、心肺蘇生が不要という意味ではなく、直ちに胸骨圧迫を再開する必要があります。
AED装着後は2分ごとに自動的に心電図解析が行われます。音声ガイダンスがあるまでは胸骨圧迫を継続してください。救急隊が到着するまで、または傷病者に「普段どおりの呼吸」「目的のある仕草」が出現するまで、BLSを続けることが原則です。
複数のスタッフがいる場合は、1〜2分ごとに胸骨圧迫の担当を交代することが推奨されています。疲れてくると圧迫の深さやテンポが落ちやすくなります。交代時間は最短にして、圧迫の質を保ちましょう。
歯科医療従事者がBLSを実際に行う場面で見落としがちなポイントがいくつかあります。意識しておくことで、いざという時の行動の質が大きく変わります。
まず、「判断に迷ったらまずやる」という意識が大切です。呼吸の確認や脈拍の確認は10秒以内に行い、それでも判断できない場合は「心停止」として扱い、胸骨圧迫を開始します。JRCガイドラインでは、心停止でない人に胸骨圧迫を行っても重大な障害は生じないと明記されています。迷っている時間の方が危険です。
次に、胸骨圧迫の深さの問題があります。「5cm沈む」という指示は、思っているより深いです。女性スタッフが行う場合、体重をほぼ全てかけるような力が必要になることも珍しくありません。肋骨骨折のリスクを過度に恐れて力が弱くなることで、有効な圧迫ができず救命につながらないことの方が大きなリスクです。骨折が起きることはあっても、救命が最優先です。
また、歯科診療所特有の課題として、患者がチェアに座ったままの姿勢での初動対応があります。チェアを水平にして患者を床に移す、または床に置いたままで対応するか、チェアごと背もたれを倒して硬い背板を入れて圧迫するかの判断が必要です。効果的な胸骨圧迫には硬い表面が必要であるというガイドラインの記述があります。チェアのクッションが柔らかい場合は、患者を床に下ろすことを優先してください。
さらに、年1回程度の定期的なBLS訓練の重要性を再認識してください。知識として「知っている」ことと、実際に体が動くことはまったく別です。日本歯科麻酔学会認定歯科衛生士の資格要件の一つにもBLSの継続的な学習が含まれており、チーム全体での定期訓練が推奨されています(oned.jpの衛生士キャリア解説記事より)。緑区歯科医師会のBLSガイドブックでは、1分以内に除細動できれば生存退院率は90%以上、除細動が1分遅れるごとに7〜10%ずつ下がると示されており、訓練による「迷わない行動」の習慣化が直接的に救命率を左右します。
チェアサイドに医療用BLSアルゴリズムのフローチャートを貼っておくことや、AEDの設置場所を全スタッフが把握しておくこと、急変時の役割分担(119番担当、AED取りに行く担当、胸骨圧迫担当)をあらかじめ決めておくことが、実際の現場での対応速度を大幅に上げます。これだけで救命率が変わります。
参考リンク・資料
以下は、この記事で参照した権威性の高い資料です。実際のBLS実施や院内研修に活用できます。
JRC蘇生ガイドライン2020(BLS章):胸骨圧迫の深さ・テンポ・CPR開始手順の根拠が詳述されています。
JRC 日本蘇生協議会「一次救命処置(BLS)」ガイドライン2020
大阪府歯科医師会・大阪府発行の歯科診療所スタッフ向け医療安全管理手引き:アナフィラキシーショックや局所麻酔薬中毒への対応としてBLSが必要な場面を詳しく解説しています。
大阪府「歯科診療所スタッフのための全身的偶発症に関する医療安全管理」(令和4年度版)
厚生労働省「救急蘇生法の指針」:市民・医療従事者向けの最新の蘇生法の指針が記載されています。
日本歯科衛生士会「救急蘇生トレーニング」資料:歯科衛生士向けに医療用BLSアルゴリズムを丁寧に解説しています。